自然なこころで生きる

たわいのない話

展示室の世界

工房を訪ねる目的の一つはその職人の持つ美の世界観を知ることにある。

工房には一般的に展示室がある。

その展示室に職人の考える美の世界が表れている。

 

磁器から陶器に好みが移行したのはいいが、どの工房の展示室も緊張感がなかった。

それ以前に作品の形と色が汚く感じられた。

ここで満足できなければ陶器の趣味を終わりにしようとある窯元を訪ねた。

 

展示室の戸を開けて中に入ると焚かれた香が感覚を異次元に誘った。

広くない展示室は張り詰めた緊張感が支配していていた。

そのような緊張感は初めての経験だった。

展示室はその「作家」の世界そのもののようだった。

展示室には二段の棚があった。

棚にはそれぞれ5点ほどの作品が飾られていた。

棚の下に壺がいくつか置かれていた。

器と壺はあるべき場所に置かれていた。

完成された配置だった。

器と壺の形色に硬い端正さがあった。

全ての作品は見えない神経で「作家」の意思と結ばれているようだった。

「作家」の意思がピアノ線のように部屋の隅々まで支配していた。

一通り見終わってようやく息ができたような感じがした。

それにしても、この異様な緊張感は何なのか、その当時は分からなかった。

その間「作家」は私の視線を観察していたという。

感想を述べると「作家」はその言葉と私の視線に満足したらしかった。

 

それから私は陶磁器のブログを書き始めた。

そのブログで彼の作品を紹介した。

ブログは幾人かのギャラリーオーナーも読んでいたようだ。

記事を読んだギャラリーオーナーから何件かの個展開催の申し出が彼のもとにあったと聞いた。

その縁かどうか知るところではないが開催した個展はぐい飲みだけで結構な売り上げあったという。

もちろんブログで紹介したのは彼だけでなかった。

地方で頑張って作陶している陶芸家の作品を紹介したこともあった。

彼らから丁寧な感謝のコメントがあったときは嬉しかった。

ギャラリー店主から個展の紹介の依頼もあったが、全てお断りした。

商業主義でブログを書きたくない。

 

いつものようにその窯元を訪ねた。

その数日前に彼から最高傑作ができたと電話で聞いていた。

展示室に入り器や壺を見た。

どれが最高傑作か判別できなかった。

しかし、不自然な意図だけを感じるものが一点あった。

それが彼のいう最高傑作だった。

技術も美的センスも抜きん出ている彼の限界を知ったような感じがした。

あの展示室の異様な緊張感がどこから来るかも何となく理解できたように思えた。

あの展示室で表現されているのは彼の美の世界ではなく、精神の投影、あるいは彼の精神世界そのものだったのだ。

 

その後しばらくして私が書いたブログで国宝の茶碗を取り上げたところその解釈を巡って彼と対立した。

それから彼と交流が途絶えた。

おそらく彼は件の最高傑作に対する私の失望を察知したのだろう。

その苛立ちがブログ記事に対する攻撃となって現れたように思えた。

 

先日訪れた家具職人の展示室は心地良さがあった。

かといって弛緩しているのではない。

何よりも作品に整った精神の落ち着きが見られた。

帰宅しても作品の余韻を感じ、幸せな時間を過ごすことができた。

 

形のない人の心を相手にしているので形あるものを作り出している人を羨ましく思った。

 

 一夜明け、妻は冷静になったようで家具購入を断念した。