自然なこころで生きる

たわいのない話

「人生は素晴らしい」と言えるために

私のような場合、怒りを表し、相手の謝罪を得て初めて心の平穏を取り戻すと考えるのが心理学であろう。

しかし私のように相手が既に死んでいる場合それは不可能であるのでおよそ心の平穏を得ることができないことになる。

 

先日入院した際、医師は、出血の跡を見つけることはできなかったが、原因は大腸の憩室からの出血であろうと診断した。

数多くあることから考えると、憩室は子供の頃から形成されたのではないかと話された。

「子供の頃から」という言葉を聞いて、私と妻は同時に納得した。

しかし把握の仕方が少し異なっていた。

妻は心理学的に把握した。

怒りの表現と相手の謝罪が必要だと。

私も当初は同じように把握した。

しかし、しばらくすると長い冒険の旅から満身創痍で故郷に帰還したような感じがした。

なんとも言えない達成感があった。

大きな仕事を終えた満足感かもしれない。

それは母の望みを叶えるという事柄の性質上私しかできない仕事であった。

その仕事を子供の頃から心身を傷つけながら果たしたのだ。

笑われるかもしれないが、自分に「よく頑張って来たなあ」と褒めて慈しみたくなった。

 

進学、仕事等々母は自分の思い通りにすべく様々な「妨害」をした。

その意味では、幼馴染のS君が言うように「お母さんはお前の人生を滅茶苦茶にした」。

しかし、そうであっても何の悔いも感じなくなった。

満ち足りた半生だったと思えた。

 

人生は素晴らしい。

 

しかし、このため妻子にさせなくてもいい苦労、それも耐え難いほどの苦労をさせた。

心から彼らに申し訳ないと思う。そのことについては悔やんでも悔やみきれないし責任を痛感している。

親子の問題は三代に亘って初めて解決するとの考え(斉藤学氏)を妻はよく口にする。

今の息子を見ているとようやく解決したと。

しかし、そうであっても私の責任は消えない。

私はこれから償いきれない責任を果たす義務がある。

彼らが人生は素晴らしいと思えるように。