自然なこころで生きる

たわいのない話

泡沫のように消えた余韻

 

ようやく晴れ間が見えた。

先週は雨が長く降り続き、雷も丸一日鳴っていた。

 

 

先日は久し振りに能を観た。

番組は「隅田川」だった。

武田文志氏と武田宗典氏からそれぞれストリーと能楽師の所作についてあらかじめ解説があったのでいつもより深く理解できたように思えた。

解説の中で、能はセリフを完全に理解しようとせず(元々それはかなり困難なことである)体全体で感覚を受け止めて欲しいと話しておられたのが印象的だった。

私の観能も基本的にはそういう態度で望んでいる。

たとえば能楽師はごくわずかに上半身を前に傾けることで悲しみを表す。

定型的といえばそれまでだがその中に感情とその動きを表現する。

それを観客が頭ではなく体で受け止める。

むしろ体と知性を透過し、さらに深いところで彼我が一致するのが能なのではないだろうか。

無意識・深層意識部分で繋がり一つになる。

そういう意味で観客と能楽師が一つになって作り上げる舞台なのであろう。

(舞台の本質は須くそうだと思うが)

だから舞台が終わっても拍手がない。

観客は静かに余韻を味わいながら会場を後にする。

本来は。

残念ながら昨日の観客はそうではなかった。

まだ能楽師が橋掛りにいるうちに大きな拍手を始める。

なんとも興ざめであった。

余韻も泡沫のように消え去る。

つまり観客は能楽師と無意識・深層意識で繋がっていなかったのだ。

完全に主客に分離していたのだ。

一座建立になっていなかった。

 

無作法は他にもあった。

非常に残念、いや悲しくなった。

これが当地なのだ。生まれ故郷でありながら当地が嫌いな理由だ。

 

fratesはwikipediaによると「親族、兄弟、同志」という意味らしい。

この曲も電脳世界の古くからのそして新しい同志、兄弟、友人に送ろう。

辛い思いをしている友人、楽しい文を綴る友・友人に。

 

 


Arvo Pärt: Frates (for cello and piano) (1989)