自然なこころで生きる

たわいのない話

もう森へなんか行かない

この曲はTBSのテレビドラマの主題曲として使用されていた。

番組が終了して以来この曲を聴くことはなかった。

物悲しく気だるいこの曲を思い出すことがあった。

しかし、正確なタイトルを知らないし、フランソワーズ・アルディが歌っているのも知らなかったので探しようがなかった。

インターネット時代はとても便利になった。

記憶の断片を元に森の中から昔聴いた曲を発掘できるようになった。

それをYouTubeで視聴する。

 


FRANCOISE HARDY(フランソワーズ・アルディ) もう森へなんか行かない

 

しかし、改めて聴くと記憶の森に埋もれていた理由が分かる。

この曲は映像と一体となって初めて訴えるものがあったようだ。

ドラマが終わった後ではこの曲はあるべき場所を失ってしまった。

だからこの曲は記憶の森に沈み込んで行ったのだ。

わずかな断片を森の表面に残したまま。

 

 

廊下で立ち止まるとN子さんは私の目を見て「やさしくて悲しい目」と呟いた。

家族にとても辛いことがあった日だった。

そのひと月ほど前、N子さんが辛くて悲しそうだったので言葉をかけた。

後で知ったのだが、彼女の恋人が修行のため遠い土地に旅立った日の午後だった。

 

一度だけN子さんの話をじっくり聞いた。

彼女は恋人のこと、なぜあの日は悲しい目をしていたのかなどを話した。

その後はそれまで通り仕事上の言葉を時折交わすだけだった。

翌年の春、彼女は遠い街に移り住むことになった。

旅立つ前に「一度食事に行きませんか」と誘われた。

N子さんは整った顔立ちの美人で女優のようだった。

そんな若くて綺麗な女性とおっさんが食事をするのは不似合いだし誤解を生むとまずいのでいつもの格好で待ち合わせ場所に出かけることにした。

仕事用のスーツにクローゼットの中から時代遅れとなったよれよれのコートを選んで羽織った。

待ち合わせ場所に現れたN子さんはいつもとは違った。

髪も服も思い切りおしゃれをしていた。

こちらが気恥ずかしくなるくらい綺麗だった。

周りの男性たちが彼女を見ていた。

肩肘張らない店で記憶に残らないほどの話をして食事は終わり店の外で別れた。

 

遠い街から手紙が一年くらいの間に三通来た。

御礼と近況報告だった。

一通目は毛筆で書いていた。

小学生のような字でお世辞にも上手とは言なかった。

慣れない毛筆で一生懸命に書いたことが伝わってきた。

二通目は彼女の恋人が修行する信州からだった。

彼女が描いたあまり上手いとは言えない信州の風景のスケッチだった。

彼女は短い夏休みを利用して恋人のアパートに滞在していた。

三通目は私の誕生日のお祝いのメッセージだった。綺麗に包装されたプレゼントを送ってくれた。

一生懸命自分で包装したと記されていた。

 

彼女が遠い街に移り住んだ何年か後に電話で一度だけ話した。

教え子たちと彼女の住む街に旅行に行くことになったと伝えた。

それを聞くと彼女は「私の大好きな夕日の綺麗な場所までドライブしましょう」と誘ってくれた。

彼女の住む街から車で1時間以上かかる場所だそうだ。

結局、旅行は取りやめになった。

 

それきりだった。

今は連絡先も知らない。

どこでどうしているのかも知らない。

接点の少ない人だったし、彼女のことを詳しく知っているわけでもない。

「もう森へなんか行かない」を聴いているとN子さんのことを思い出した。