自然なこころで生きる

たわいのない話

花入を見ながら滝の音を聞く

陶磁器に初めて興味を持ったのはいつだったのだろう。

大学時代は度々陶磁器屋に足を運んでいた。

本格的にのめり込んだのは10年前だった。

最初は磁器、やがて定石通り陶器に興味が移って行った。

いずれも作家物だった。

磁器は形と色が綺麗で洗練されていて好みだった。

しかし、果たして価格相応なのか疑問に思うようになった。

破綻のない形と色なら機械で作ればいい。

何もわざわざ人の手による必要はない。

人の手よりも機械の方がより綺麗な形と色を作ることができる。

それに圧倒的に低価格になる。

磁器に興味を失った。

しかし、川瀬忍の初期の作品は今でも素晴らしいと思う。

 

川瀬忍の世界

 

陶器は唐津焼にずいぶんのめり込んだ。

陶器の良さは人の手でしかできない形と色にあるように思う。

陶器に興味を持つようになったものの荒々しい作品は好きになれなかった。

どちらかというと磁器に近い陶器というべきものが好みだった。

 

実を言うと、陶磁器は果たして道具なのか芸術作品なのかよく分からなかった。

道具なら高価すぎるものがあるし、かといって芸術作品と見るならば偶然性が強すぎる。

茶陶であるならば道具が高価であっても問題がない。おそらく。

そうでない場合はなんとも中途半端な感じがしていた。

芸術作品と呼べない単なる道具に何万、何十万の金を払うのは、どうにも理解できない。

 

ところが昨年、湯布院で唐津焼の陶芸家が穴窯で作った作品を見て少し変わった。

人によって作られた自然があった。道具という形をした自然だった。

これは穴窯でしかできないものなのだろう。

穴窯で一週間近く焼き続ける。

薪の赤松は何トンもいるだろうし、それを焚き続けるとどれだけ体力を奪われるかを考えればそれなりのお金をもらわなければやっていけないだろう。

 

先日、穴窯で焼いた信楽焼の花入を手に入れた。

流れ落ちる滝が見えるようだ。

無論、興味のない人には何をくだらない妄想をと言われそうだが。

暖炉の前ではなく、和室に置くのが、やはり相応しい。

花入を見ながら滝の音を聞く。

それが夏であればまた良い。

客と共に涼しさを感じることが出来るかもしれない。

 

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トリミングしているので画質が悪い。