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自然なこころで生きる

たわいのない話

存在が支える

今年も第三者委員の更新をした。

私は10年ほど前から重症心身障害児(者)施設の第三者委員をしている。

と言っても最初から開店休業状態が続いている。

第三者委員は利用者と施設のとの間で生じた問題あるいは苦情を第三者の立場から話を伺い解決の方向を見出す仕事だと認識している。

開店休業状態が続いているというのは施設側の努力と利用者ご本人とご家族の理解と協力がうまく行っているからだと思う。

 

開店休業と言っても最低でも年に一度は必ず施設を訪ねる。

6月にある運動会だ。

最初に招待を受けた時は正直に言えば行きたくなかった。

午前11時に開会し1時間ほどで終わる。

紅組、白組、黄組に利用者が分かれて競技する。

歩ける人もいるが、ベッドに寝たままの人もいる。

職員の皆さんのアイデアによる楽しい競技だ。

歩ける方は自力で、ベッドで寝たきりの人は職員や利用者の父母が介助して競技する。

寝たきりの人も動かせる手をわずかでも動かしている。

それも叶わぬ人は顔や目を動かして競技している。

 

私はステージ上の来賓席という何とも面映ゆい席にスーツにネクタイ姿で着席しているが、競技が進行するにつけ応援に力が入る。

成功すれば拍手し、失敗しても拍手する。

意思に基づいているというより勝手に拍手している感じだ。

スポーツ観戦はほとんどしないし、してもすぐに飽きてしまうが、この運動会は違う。

飽きない。

スポーツ観戦をしないのは、勝ち負けがあるのが嫌いだからだ。負けず嫌いだから贔屓のチームが負けるのは見たくないし、かと言って敗者のことを思うと何とも言えない気分になる。

ところが、この施設の運動会に勝ち負けは関係ない。

眼だけを動かすにせよ、顔を向けるだけにせよ、身体を動かすスポーツの純粋な形があるように思う。

何より参加者が競技を楽しんでいるのが分かる。

介助する施設の職員の一生懸命さが伝わる。

みんなが運動会に参加し一つになっているように見える。

だから観戦する楽しみがあるのではないかなと思う。

 

人間は独立した主体のように見えるが誰も真に独立してはいない。

みんなが寄り添い生きている。

私たち人間は個であると同時に他と一体をなしている。

誰かを不要な存在として排除すれば全体のバランスが壊れるのではないか。

それを忘れさせているのは経済合理主義のように思う。

人間に不要な存在はいない。

目に見えようが見えまいがそれぞれが他者を支えている。

存在そのものが誰かを支えるのだ。

それに気付かせないのが経済合理主義ではないか。

 

競技の途中で暑くなりスーツの上着を脱いでいる。

競技が終わる頃には拍手のしすぎで手が疲れている。

会場を後にするときには自分もスポーツをしたような爽やかな気持ちになる。

来て良かったと毎年思う。