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自然なこころで生きる

たわいのない話

あり得ないこと(復元修正版)

このエントリーは誤って削除したため記憶を頼りに復元した。

イエスの復活(最終回)

他人が死んでも私たち人間の本質は変わらない。そうではないと反論されるかもしれないが、どこまでも自己愛に囚われているのが人間なのだ。ごく親しい身内たとえば子供や配偶者が死ねば変わるかもしれないが、身内でもない者が死んだからといって人間が変わることはない。

所詮他人でしかない師を裏切った者が死んだ師のために全員が死に赴くなぞ絶対にあり得ない。しかもその師は逮捕され磔刑に処せられたとき弟子たちの期待に反し何の奇跡も起こせなかった無力な男でしかなかった。

誰であろうと人間が死ぬことは当たり前で自然なことだ。弟子たちが別人に変わったのは自然ではないこと、絶対にあり得ないこと、反自然な出来事があったからと考えるのが最も合理的で説得力がある。それがイエスの復活ではないのだろうか。これは死者の蘇生とは異なる。死者の蘇生はまれではあるが起こり得る。死者の蘇生は元の身体が息を吹き返すが死期を遅らせるだけでやがて死に至る。これに対し復活はそれ以前とは全く別の身体に生まれ変わることなのだ。その身体はもはや物理法則に支配されない。この復活に出会ったが故に力を得て弟子たちは人が変わり恐れずにイエスの復活を宣べ伝え全員が殉教に向かったのだ。弟子たちは使徒になったのだ。

イエスの復活を証明する直接証拠はないが、弟子たちが全く別人になったことからイエスの復活を証明することはできると思う。

あり得ないことは、絶対にあり得ない出来事によってしか起きない、そう私は思う。

 

イエスの復活を信じたが故に私は洗礼を受けカトリック信者になった。しかし洗礼を受けるまでは洗礼を受けるかどうかを含め悩み葛藤があった。しかも本当にキリスト信者になったといえるようになったのは母の死後であった。母の死により自由な自分を獲得して初めてキリストに従うようになった。自由な自分になって初めて全てを神に委ねることができるようになったのだ。

私は最晩年の母の様子を見て、信仰の有無、信じる宗教の違いを超えて神は救って下さると確信している。(これは正統なカトリックの教えから逸脱しているかもしれない)。

神から見れば宗教の違いや信仰があろうがなかろうか取るに足りないものではないだろうか。

本物の宗教であるならば、自分を殺すことによって自分を活かす・生かすことができ、決して他人を支配することはないし清浄な幸福と静かなこころで生きることができる。

できたら、日本文化によって育まれた宗教の方が無理がなくていいと思う。しかし信仰がなくてもそのような境地に達することができるならば素晴らしいと思う。

 

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