自然なこころで生きる

たわいのない話

My Sweet Lord

昨日の記事で写真撮影の際に気を付けている点を述べたが、失念していたことが二点あった。

一つは写真撮影の前のことになる。

いろんな写真を見て心惹かれる写真を見つける。

そして心惹かれる写真をパクる参考にしている。

色と形だけにとらわれるのではなく、その写真のどこに惹かれるかを考える。

カッコつけて言えば本質ということになろうが、所詮パクリ参考にしているので偉そうなことは言えない。

 あとは実践のみ。

 

もう一つは写真撮影の時にカッコつけないようにしている。

花弁から透過する光を撮影しようとするとまっすぐ立っていては撮れない。

しゃがんだり、あるいは寝転んだりしないと撮れない。

クリスマスローズの写真を撮影した時は、玄関前の階段の一番上に鉢を置き、階段に寝そべって撮影した。

幸い通行人がいなかったからいいようなもの、相当奇妙な人間に見えたことだろう。

バリアングル式の液晶画面があるカメラならそんな苦労をしなくて済む。

それがないカメラなので人の目を気にしてカッコつけては撮れない。

 

人の曲を参考にしたパクったと言われたのがこの曲だ。

果たして盗作したのか分からないが、この曲がしばらく聴けなかかったのを覚えている。

この曲の盗作問題が出た時、ジョン・レノンは「分からないように盗作しなければ」と言ったという。何かの雑誌の記事だったと記憶している。

天才は盗作の才も有するのかと感心した。

しかし、人間が作る諸々のことで誰かの物真似ではないものが果たしてあるのだろうか。

完全なオリジナリティは存在しないのではないかと思う。

それはそれとしてジョージ・ハリソンがパクった作った曲をどうぞ(どっちか分からなくなった)。

この頃のジョージ・ハリソンは西洋絵画で描かれるキリストのパクリみたいだな。本物のキリストは見たことがないが。

 


George Harrison-My Sweet Lord (Studio Version) Original

失った根がある場所

私が小学校に上がる前は、田舎だったこともあるのだろうがどの家も鍵はかけていなかった。

私は向こう三軒両隣の家に勝手に上がり込んでいたらしい。子供だから誰も咎めなかった。

近所の人たちは生まれたときから知っていた。皆優しかった。

離婚後、母は職場で父が起こしたあることについて新聞記者の取材を受けた。

幸い記事にはならなかったが街の人たちは父が起こしたあることを知っていた。

買い物をしていると見知らぬおばさんから名前を呼ばれ、「お父さんはどうしているの」とわざと尋ねられたことが何度かあった。

同級生とその母親と道で会った時、母親から促された同級生から同じことを尋ねられた。

言い争いになり、形勢が不利になった別の同級生は私に「お前のお父さんがしたことは・・」と言って口を噤んだ。

弱みを見せたら負けだった。闘わなければ生きていけないと自覚した。

 

近所の人たちは違った。大人も子供も変わらずに優しかった。

いつも守ってくれた。家の中にいるのと変わらなかった。

私は父が生まれ育ち、祖父も生まれ育った土地で長男である父の一人息子として生まれ育った。

全国的にはそう少なくない苗字だったが小学校では私と同じ苗字は一族の者だけだった。

私の苗字と生まれ育った土地は大げさに言えば私の根のようなものだった。

 

当時の民法では婚姻時に氏を改めた者は離婚の際に復氏しなければならなかった。

離婚によって母が親権者になったので私も母の氏を名乗ることになった。

当時の担任の先生と母との間で小学校在学中は旧姓を名乗り、卒業時に新しい氏を名乗ることとなった。

改姓は卒業式と決まった。

卒業証書を頂くためステージの右手から上ると左手側に立っておられた担任のT先生が覚悟はできているを確認するかのように私の目を見つめた。

私も先生の目を見つめ返した。

それを確認してから私の名前が新しい氏で呼ばれた。

リハーサルのときよりも大きな声で返事をした。

会場がざわついた。

校長先生から卒業証書を授与され自分の席に着くと隣に座った同級生が「何て呼ばれた?」と聞いた。

小学校の卒業式で依って立つ根の一つを失ったような気がした。

新しい名前に馴染めなかった。

 

中学2年の夏、生まれ育った土地から母の実家近くに引っ越した。

周囲の人は全くの他人ばかりになった。

気楽に家に上ることはできなくなった。

母の故郷であるが私はここの人間ではない。

依って立つもう一つの根を失った。

根無し草になったような気がした。

新しい土地に住み続けているが今でも馴染めない。この土地は好きになれない。

 

小学校は生家の裏の小高い丘の上にあった。

校庭で遊んだ後丘の斜面から私はよく生家を見ていた。

時折 両親の姿を認めることもあった。

夕陽の美しさに目を奪われたのはあの丘だった。

昔は死んだら卒業した小学校の丘の斜面にほんの一欠片でいいから私の遺骨を埋めてもらいと思っていた。

失った根はそこにあるのだから。

 

 

白い人

キリストは、2000年前、すべての人の罪を贖うため何の罪も犯していないのに十字架につけられて死んだ。

十字架上で腰に白い布だけを着け群衆から嘲られ辱められている姿は絵画の題材として度々取り上げられている。

私にとってキリストとはその姿の人である。

 

私が子供の頃は子供たちは小学6年生から1年生まで学年を超えて一緒に遊んでいた。

小学4年生の夏休み、私は近所の子供達といつものように学校が立ち入り禁止にした川に遊びに行った。

5年生から1年生までの一団だった。男の子にとって危険な場所は魅力に溢れて学校の禁止は意に介さなかった。

一番の難所である川の淵の岩を年長者から順番に飛び越えて行った。最後から二番目が私だった。私が飛び越えた後1年生のM君も続いた。

M君は岩から足を滑らして川の淵に落ちた。

私の顔を見ながら平泳ぎのように二、三度手で水を掻いた。

すぐに淵に沈んで行った。

水紋の真ん中に彼がさっきまで被っていた青い帽子が浮いていた。

みんな怖くて飛び込めなかった。呆然としていた。

 

警察や消防が船を出し、潜水具を着けた人たちが次々に川に飛び込んで捜索した。

私たちは川の堤防の上で人目を憚り捜索を見つめていた。

船の上にパンツ一枚だけの長身の大人が何度も川に飛び込み捜索していた。

警察や消防の人たちは皆制服を着るか潜水具を着けていたので、腰に白い布を身につけただけでほとんど裸形に近いその人の姿は異様で目立った。

堤防で捜索を見守っていた群衆の目はその白い人に注がれていた。

その白い人は群衆から嘲られ辱められているようだった。

人々は白い人を指差し一緒に遊んでいた子供の父親だと言っていた。

白い人は私の父だった。

父はM君と彼の両親に私の罪を贖うため人々から辱められていたように思えた。

堤防の上で、M君を死に追いやった自分の軽はずみな冒険心を心から悔いた。

父に申し訳なく思った。

 

捜索から帰宅した父のもとに駆け寄ると父は「大丈夫か?お前は何も心配するな。」と言って肩を抱いてくれた。

その夜、M君と会った夢を見た。「生きていたの?」と尋ねるとM君は「うん」と答えた。

 

子供が生まれて小学2年生になるまで私は怖かった。

息子も小学1年生でこの世から取り去られるのではないかと怖れていた。

それが私の罪に対する罰だと思っていた。

息子が小学2年生になった時初めて妻にあの夏の日のことを話した。

 

その後キリストを知るようになって、神の存在について考えるようになった。

果たして神を見ることができるのか、キリストを見ることができるのかと思い悩んだこともあった。

しかし、あの日私は、私の罪を贖うため人々から辱められた白い人に会っていた。

ようやくあの時の白い人はキリストだったと気付いた。 

 

 

 

 

 

 

 

きつくて楽しい登山

休みだったので車を走らせ久住高原へ。

撒き餌レンズと言われるf値1.8、50mmの安い単焦点レンズだが、とても鮮明に風景を写してくれる。

ズームレンズは一般的にすこぶる便利だけれども空気に濁りがある。

便利さは何か大切なものとトレードオフの関係にあるようだ。 

もう一つ単焦点レンズを購入したくなった。

あえて不便さを選んで澄んだ空気を通した景色を写してみたい。

f:id:satoufayukio:20170301212513j:image

 煙を出している硫黄山に雪が積もっているのが見える。

 

 

f:id:satoufayukio:20170301212542j:image

 木立が硫黄山を隠している。

 

 

f:id:satoufayukio:20170301212601j:image三俣山にも雪が積もっている。

 

昔はこの辺りの山もよく登った。

三つ歳上のHさんと三俣山の奥にある大船山に登ったことがあった。

彼のお手製のとても見栄えが良く味も良い卵焼きと焼きたらこが入った弁当を山頂で食べた。

きつくて楽しい登山だった。

 

Hさんはある不祥事を起こして今は行方不明になっている。

最難関の一つである資格試験に合格し専門職に就いていた。

合格した後彼から自分の力だけでは合格できないのであなたの頭を利用させてもらったと言われた。

その後も仕事上の問題について相談された。

仕事上の知識は私にはないので相談は問題の論理的な関係や取るべき方途などであった。

不祥事が発覚する前は彼のおごりで度々飲みに行った。

 

不祥事が発覚した後で一度だけファミレスで会った。

友人から頼まれて彼の心の声を聴くためだった。

残念ながら私の手には負えなかった。

別れる時、彼は請求書を指差しこれはどうするのかなと尋ねた。

レジで800円足らずの金額を支払った。

 

大船山に登った後、薄暗い中、三俣山から私たちは麓にたどり着いた。

この写真を撮った場所に立ち三俣山を見るとあのきつくて楽しい登山を思い出した。

Hさんに会いたくなった。あの頃のHさんに。

 

 

方言

喘息になったのは四年前の雪の降る日に薄着で京都の街を歩いて風邪をひいてからだ。

二泊三日の大阪旅行に夫婦で行き、一日だけ楽美術館に行くために一人で京都に行った日だ。

大阪に行くのは何年振りだっただろう。

最近は東京ばかりで大阪に行くことはなかった。

淀屋橋に本店のある生命保険会社でサラリーマンをしていたので大阪は私にとって懐かしい街だ。

久し振りに梅田を歩くと懐かしかった。もちろん私がいた頃とはずいぶん様変わりしていたがそれでも見覚えのある店は残っている。

大阪勤務になって間もない頃、同僚の女性から大分に方言はないんですかと聞かれた。

ないと答えたら私と同郷の男性と付き合っていた別の同僚の女性がそんなことはない、めっちゃ方言がありますよと正しい反論をした。

 

三月の終わりに中途退職する私のために課で送別会が開かれることになった。

課は総勢70名を超えていた。

私の当たり障りのない、ややカッコつけた挨拶が終わろうとしていた時、突然壇上に隣の課の課長代理が登ってこられた。

課長代理は私が属したシステム開発プロジェクトチームの柱の一人だった。

私が中途退職するに際して何人もの上司から引き止められた。

その中で、君が退職すればシステム開発全体の進捗が遅れるから考え直してくれと言われた。

これは堪えた。システム開発はたいへん面白かったし、将来私が課の運営を担って行くことになっていたから責任を感じていた。

私は彼から罵倒されると思った。

そもそもなぜ所属の異なる彼が私の課の送別会にいるのか状況が理解できなかった。

おそらく私は壇上ですくんでいたと思う。

 

課長代理は、私の送別会があると聞いて会場の隣で飲んでいたらしい。

私からマイクを奪うと課長代理は「俺はこいつに幸せになってもらいたいんや、みんなもそうとちがうか。こいつは新しい道を歩むんや、夢を叶えてもらいたいんや。」と言った。

あとはよく覚えていない。

私は壇上で泣き出したからだ。

 

翌日、壇上から自席に戻ったあと私は泣きながら「課長代理があんな言葉をかけてくださったので泣いてしまってカッコつけた挨拶ができなかった」などを方言で言っていたことを同僚の女性から聞いた。

その女性から「方言で話しているのを初めて見ました。可愛かったですよ。」と言われた。

良い人に恵まれ、大阪は私にとって大切な土地となった。

 

悲しみ

絵画でも彫刻でも陶磁器でも心惹かれる作品は悲しみがある。

マーク・ロスコの作品を見て最初に感じたのは悲しみだった。

ハンス・コパー、ルオーも然り。

悲しみは芸術作品だけに見られるだけでなく、人間という存在の根底に共通してあるのではないだろうか。

河合隼雄先生は、人間が自然から切り離されたことからくる悲しみが人間存在の根底にあると述べていたように記憶している。

 f:id:satoufayukio:20170304172801j:image

人間だけが自分が死にゆく存在であることを認識している。

したがって、日常生活で忘れているにせよ人間は生が終わりのある儚いものであることを知っている。

すべてが死によって失われ、何も残らず何も残せない。

死がなければ何かを残そうと思わない。

残せないと知っていながら残そうとする。

死にゆく存在の虚しく儚い努力。

それらが人間存在の悲しみであるのではないか。

それは私たちの心の奥底に静かに沈み込んで、通常は姿を見せることはないしそれがあることすら気づかない。

優れた芸術家は光届かぬ深奥に沈んでいる存在そのものの悲しみを掬い取って形にしているのではないだろうか。

  

f:id:satoufayukio:20170224231312j:image

 

人間存在に共通する悲しみとは別に個人の悲しみがある。

一時的な感情ではなく、個人の経験から生じ死に至るまで引きずっていかなければならない悲しみあるいは心の痛みである。

生きて行く中で他人を傷付けなかった人はいない。

他人を足蹴にしたことがない人はいない。

どんなに仕方なかった、気付かなかったと弁解しても傷付けられた相手の悲しい目が心から消えることがない。

我が身を振り返ってみても、どれだけ多くの人を傷付け、足蹴にしたことか。

余りの数の多さ、酷さに愕然とする。

自分の業の深さ、罪深さに心に痛みと深い悲しみを覚える。

もちろん私も傷付けられ足蹴にされてきた。

私たちは互いに傷つけ足蹴にし合いながら生きていく悲しい存在なのだろう。

 

母は職場では大変厳しい人であり一部の人からは蛇蝎のように嫌われ陰口を言われていた。

しかし、母は子供には優しかった。

生母と別れた子供、特に継母に育てられている子供に同情以上の深い思い入れがあった。

小学生の頃、継母に育てられている同級生が一人いた。母は彼に会うといつも優しくその同級生に声をかけていた。

同級生も母を見ると嬉しそうに「おばちゃん」と呼んで母のそばに来た。

母は彼の身を案じ、継母に虐められていたことに心を痛めていた。

彼は時折私に全く理不尽な暴力を振るった。

そのことを母に話すと意外にも母は怒らなかった。

むしろ継母に育てられている彼に同情し私に我慢するように言った。

母が彼に注ぐ眼差しは他の同級生に注ぐそれよりもはるかに優しかった。

私に注ぐ眼差しとも異なっていた。

母は遠くの土地に三人の子供を置いて婚家から戻った。

三人兄弟は継母に育てられた。

その当時私はそのことを知らなかった。

おそらく、彼に注がれた眼差しは遠くの土地に残し継母に育てられている自分の子供に対するものであったのだろう。

母は決してそのことを口にしなかった、それが却って母の悲しみの深さを物語っていた。

母にこのような悲しみがあったことは母を蛇蝎のように嫌っていた人たちは知る由もなかった。

 

母が亡くなったとき、遠くの土地に住む長兄に電話で知らせた。

長兄は生き別れから三十年経って初めて母と再会した時のことを話してくれた。

 一番下の兄は母に「あなたを母親と思ったことは一度もない」と言ったそうだ。

三人の兄達は葬儀に参列しなかった。

兄達から何の便りもなかった。

 

 

 

城下町散策

城下町大分県杵築市を散策。

 この町は二つの丘に武家屋敷がある。

写真のこちら側と向こうに見える坂の上が武家屋敷。

二つの丘に挟まれた坂の下に商家が立ち並ぶ。

f:id:satoufayukio:20170223181848j:image

 坂を下りて向こうの側の坂を登る。どちらの坂の上でも立派なお屋敷を見ることができる。羨ましいが維持費が大変だろうと余計な心配をする。

f:id:satoufayukio:20170223181921j:image

坂を登る。 

f:id:satoufayukio:20170223182023j:image

 今来た道を戻る。坂を下り坂を登る。

城に向かう。すこし遠く感じたので引き返す。

 

武家屋敷が多く残る。

中に入ると懐かしさを感じる。

と思ったのも束の間、鴨居に頭をぶつける。

江戸時代の成人男性の身長は低い。

f:id:satoufayukio:20170223182109j:image

 遠くに城。

f:id:satoufayukio:20170223182143j:image

 城下町ではカトリック教会も和風。こちらの主任司祭であるフラガ神父は料理本を出版しているほどプロ級の腕前。何度か食べさせていただいた。高齢で入院中。

f:id:satoufayukio:20170223182351j:image